貧しさ

八重咲きの白い椿
八重咲きの白い椿

しい人は幸いである。天の国はその人のものだからである」このイエスのことばは貧しさと天の国は直結していることを表しています。そのため、修道誓願の3つの誓願の一つにする修道会は多い。砂漠の師父たちや17世紀のトラピスト、アシジのフランシスコ、クララにとって、貧しさは理想的状態でした。しかし、ベネディクトにとって、貧しさの概念は少し異なります。極端な耐乏生活に価値を見出していません。また、物質を悪と見て、精神性に対立させる傾向もありません。

 

ベネディクトは毎日の食事のために一日に一人4分の1リットルのブドウ酒を分配し、それでも足りない修道者にはさらに適量供するように指示しています。食事の量についても、各人が十分な量を供されるように配慮しています。したがって、修道生活と貧窮生活を結びつける意図は見られません。各人は必要に応じて、また、弱さに従って物品を分配され、全員が不平なく、無理なく、平和に神への奉仕にいそしめるように、考慮されています。

 

にもかかわらず、ベネディクトには物質の使用の仕方が、霊性に深くかかわることを知っています。人のこころにある欲深さや、自分さえよければよい、という利己主義に警戒するように徹底的な無一物主義を貫きます。すべてを共有し、私有財産は認めません。イエスを中心にした12使徒のグループもすべてを分かち合っていました。これは初代教会に受け継がれ、わたしたちのモデルになっています。物質的富にも精神的富にもすべてわたくしのものはありません。愛し合う関係の中では、すべてが共有になり、何かをひとり占めにするなら、愛に亀裂が生じます。

 

したがって、戒律では、物を持たないことに価値を見出すよりも、キリストの愛をもたらすことに比重が置かれています。そうであっても、修道者は無一物であって、物質に依存することは許されません。それは、霊の渇きによって、絶えず、神を求める霊に目覚め続けるためです。

 

ベネディクトの物質との関係で、見落とすことのできない面は、物質を神の作品と見なしている点です。神が創造し、これを人間に与えた物質は、蔑視し、排斥し、乱暴に扱い、使い捨てにし、乱費するべきものではありません。それは丁寧に扱い、命の尽きるまで使用し、美しく整頓して使用し、不潔にしたまま放り出して見向きもしないように乱雑にするべきものではありません。

何故かと言いますと、それは自分のものではなく、神のもので、ただ、使用が許されているに過ぎないものだからです。「神は造られたものを一つも嫌われない」と聖書にありますが、わたしたちの周りにある物質は、無を有に変える神の業であり、神はそれによってわたしたちへ語りかけているからです。そのために、ベネディクトは「すべての物品を祭壇の聖器のように扱う」ように勧めています。すべての物にある神の祝福と愛を無に帰せしめないためであり、すべての物の使用に関して、キリストの主権を認めるためです。

 

自然界に対しても、わたしたちはこのような態度を持ちます。なるべく自然を破壊しないように、手を入れる部分は最小限度にするように気を付けています。カエルや小魚が命を落とさないように、有機栽培と無農薬で作物を作るのは、この理由です。預言者バルクは、「神が命じられると、星々は〝ここにいます“と答え、喜々として自分の造り主のために光を放つ」と美しく旧約の世界を描きます。このように自然界を神の作品として受け取るとき、木々も小鳥たちも嬉々として命を伝えてくれます。シトー会の偉大な聖人、ベルナルドも「わたしの修練長は森であった」と言い、森や野原から多くを学んだことを示唆しています。

 

 

 

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